四本堂公園内には大村氏にまつわる史跡「御腰掛石とお茶の水」があります。
御腰掛石
正暦五年(994)藤原純友の孫で、大村氏の大祖藤原直澄が、朝廷より肥前の国の内藤津郡、彼杵郡、高来郡の三郡を賜り生国の四国の伊豫大州を出発して海路下向し、 伊之浦瀬戸を渡りその正面にあたる当地に上陸し、ここで小休止をしたとの言い伝えがあります。
郷村記によると直澄はこの地に上陸し鎧を着し旗差物を立てて軍装をととのえ、土地の豪族椎野大膳をはじめ近隣の庄長村民ら出迎えて着郡を祝いました。 母衣をめぐらして着郡の祝宴を張ったのでこの地を母衣崎(ぼらざき)といい直澄の座した岩を御腰掛石といいます。
郷村記によると直澄はこの地に上陸し鎧を着し旗差物を立てて軍装をととのえ、土地の豪族椎野大膳をはじめ近隣の庄長村民ら出迎えて着郡を祝いました。 母衣をめぐらして着郡の祝宴を張ったのでこの地を母衣崎(ぼらざき)といい直澄の座した岩を御腰掛石といいます。
御茶の水
藤原直澄を、土地の豪族である椎野大膳や地元の人たちは歓待し、ここから湧き出る水を汲み、お茶を供したことから「御茶の水」とよばれるようになったと伝えられますが、 藤原直澄の入国は後世の創作と指摘さえています。
大村藩は寛政年間、九代藩主純鎮公のときに「腰掛石」とこの「御茶の水」のそれぞれに刻字した石柱を立て、掃除人を置き、御神酒料を与えていました。
「西海市の文化財」より
大村藩は寛政年間、九代藩主純鎮公のときに「腰掛石」とこの「御茶の水」のそれぞれに刻字した石柱を立て、掃除人を置き、御神酒料を与えていました。
「西海市の文化財」より